日本におけるヴィラ=ロボス研究の先駆者、村方千之氏の文章を公開

村方千之氏からの手紙㉜『ショーロス第1号』(1987.7.31)

村方千之氏からの手紙㉜(1987.7.31)

村方千之氏が日本ヴィラ=ロボス協会の会報『ショーロス第1~12号』に執筆した文章を抜粋し、「村方千之氏からの手紙」というシリーズでご紹介しております。

村方千之 「ヴィラ=ロボスと私の出会い」
『ショーロス』第1号
(日本ヴィラ=ロボス協会会報)

昭和62年(1987)7月31日、1~3頁

発行 村方千之 / 日本ヴィラ=ロボス協会
編集 濱田滋郎 小川一彦 與五澤實


ヴィラ=ロボスと私の出会い

村方 千之

私がヴィラ=ロボスのことを初めて知ったのは今から38年前のことである。昭和24年頃と言えば戦後の混乱がようやく落ち着き始め東京音楽学校も東京芸術大学に変わり、アメリカやヨーロッパの音楽情報も少しずつ伝わってくるようになった時期で、芸大に入ったばかりの頃に作曲家の仲間達の間でヴィラ=ロボスのことが話題になっていたようなことからであった。

それから25年殆ど思い出すこともなかったその名前と再び出会ったのは1975年の初め頃で、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで11月に開催されるというヴィラ=ロボス音楽祭国際指揮コンクールの記事がたまたま目にとまったからであった。それまではすっかり忘れていた彼への関心がここで再び呼び覚まされ、世界の三大美港の一つと言われている開催地リオ・デ・ジャネイロへの魅力も伴って、早速コンクール参加の準備にとりかかったのである。

課題曲は≪ブラジル風バッハ第9番≫、自由曲は指定してあった数曲の中から≪ブラジル風バッハ第2番≫≪ノネット≫それにブラジルの作曲家G.ヴィンセンチ作曲の≪ミラージ≫を選んだ。折りよく東芝レコードから出たばかりのパリ管の≪ブラジル風バッハ≫の中に課題曲の≪第9番≫と自由曲の≪第2番≫が入っていたのも大変参考になった。また折角ブラジルまで行くからにはついでにポルトガル語を少しは話せるようにしたいと考え、付焼刃ながらその講座に通ったのである。

11月7日、いよいよのブラジルへの旅は冒頭からジェット機の故障などで気をもませ、経費節約で三つも航空機を乗り継いだものだから、地球の裏側とはいえ30時間余りもの長旅となった。到着した憧れのリオ・デ・ジャネイロは初夏、空は抜けるほどにからりと碧く、ぎらぎらと照りつける太陽のもと海岸沿いに走る高速道路から初めて見るリオの町並みは素晴らしく美しい。椰子の並木、ずらりと連なる高層ビル、明るく解放感に溢れた街角を行き交う人達のおおらかな表情、誰を見ても前から知っていた人達のように親しみのある不思議な違和感のない異国の街が私を迎えてくれたのであった。

自分はいま確かにリオに立っているのだと、頬をつねってみたい興奮と感動に、時差ボケで頭がくらくらするのも忘れて、旅装を解いたばかりのホテルから早速にヴィラ=ロボス記念館へ電話、私のポルトガル語が通じて館長のアルミンダ・ヴィラ=ロボス未亡人との初めての会話は、まさに感動の一瞬であった。私の片言は何とか通じたが、相手の話はほとんど分からない一方通行、それでも気持ちは通じた。

“ミンジーニャ”の愛称でヴィラ=ロボスがこよなく愛した小柄だが上品で美人のアルミンダさんと、翌日初めてお会いしたときの感動は今も忘れられない。見上げるようにして私を抱擁し、日本からわざわざやって来た私のことを心から喜んでくれたのだった。彼女はかつて1968年に来日されたことのあるという大の日本ファンで、日本人が遠路はるばるこのコンクールに初めて参加したことを大変感激してくれたのである。この時夫人は63才、てきぱきと采配をふるっておられる姿はヴァイタリティに溢れ、なかなか魅力的な女性であった。

当時、リオ・デ・ジャネイロの中心地区にあった旧文部省の建物の一角に、この偉大な作曲家の偉業を永久に記念するためのヴィラ=ロボス記念館があった。ただ、一昨年この仮住まいから中心よりやや離れた高級住宅の並ぶ地区に立派に改装された新しい記念館に引越した。記念館には膨大な数の作品の原譜と、彼の指揮や演奏によって録音されたレコード、それに愛用のピアノやギターを初め数々の遺品が保管されている。この記念館は政府の機関である教育文化庁の監督の下に運営され、かれの著作権料や印税は記念館の運営の資金として活用されている。ここには分厚い大型のサイン帳が数冊置かれており、訪問してきた人達のサインがヴィラ=ロボスへの関心の深さを様々な形で示している。その中に今から17年ほど前にN響が南米演奏旅行の折に立ち寄った数人のメンバーのサインもあり、今この協会の役員のお一人である山畑馨さんと、ハーピストである奥さんの松江さんの名前も見受けられた。私のサインも今その中で密かに眠っている。

ヴィラ=ロボス音楽祭は今から26年前、1961年つまり没後2年目の11月から始められたもので、その後は毎年命日である11月17日のカンデラリア教会でのミサを真ん中に前後約三週間に亘って彼の作品のコンサートや国際コンクール、パーティなどの記念行事が行なわれている。国際コンクールはギターの年、ピアノの年、チェロの年、指揮者の年、というように毎年部門を替えて行われ、課題曲には彼の作品が、自由曲には彼の作品とブラジルの作曲家の作品の中から選ぶようになっているのがこのコンクールの大きな特徴となっている。

第一回の国際指揮者コンクールには15カ国から34名が参加した。ホテルではいろんな国の言葉が入乱れて盛んに楽しい交歓がかわされ、いつの間にかそれぞれに仲良くなってお互いの国のことや音楽のことに話の花が咲いた。コンクール開催中の滞在費は主催者負担、早く済んでしまった者も最後のイベントまでいてもよいという誠におおらかな精神だから、お互いにカリカリした雰囲気はない。

コンサートは日本と違って夜の9時から始まるので、夕食をゆっくり済ませて正装して出掛ける。最初の夜のことであった、後ろから「先生」と声を掛けられてびっくり、初めてやってきたリオで私を知っている人がいるとは全く夢のようだと、話を聞いてみると国立音大出身のオーボィスト長嶺君であった。卒業して直ぐにリオのオーケストラの募集に応じてやってきたという。彼にはコンクールでの通訳をはじめ、何やかやと大変お世話になってしまったが、それにしても世界中どこのオーケストラに行っても日本人が居るというのは本当だな、とつくづく思ったものである。長嶺君のいるオーケストラ・ド・ブラジレイラスは唯一のプライベートオーケストラでレベルも高い。ブラジルでは主な都市には必ず州立か市立のオーケストラがあるが、このほうは全体にあまりレベルが高いほうではない。コンクールでお付き合いをしてくれた市立歌劇場のオーケストラはその点では質的にまとまっているほうではなかったが、その時の気分で調子に乗ったりすると同じオーケストラとは思えないほどの素晴らしい演奏になったりすることがあり、これがラテン系のオーケストラの特徴で、情感の平坦な日本のオーケストラにはない面白くて楽しいところなのである。

コンクールのときに私の前に指揮台に立ったグァテマラの指揮者は何や彼やとうるさく注文をつけ、とうとう途中でメンバーと大喧嘩になり、指揮棒を床に叩きつけてわめきながら出て行った。これには驚いたが、私は最初に指揮台に立った時にまず彼等とのコミュニケーションを作っておくために片言ながらポルトガル語で挨拶をした。彼等はにこにこしながら聞いていたが、これが見事に受けて気をよくしたのか大きな親指を突出してうなづいてくれた者もいて、お陰で私の指揮によく応えてくれたばかりか、メンバーとはすっかり仲良しになったのであった。

ヴィラ=ロボス記念館の館長としてヴィラ=ロボスの偉大な足跡を彼の没後21年間に亘って守り続けてこられたアルミンダ・ヴィラ=ロボス女史は、1985年8月に突然心臓病のために73才で急逝された。私はちょうど前月の7月に彼女宛に手紙を差し上げたばかりで、「1987年の生誕100年記念の年にはぜひ貴女を日本にお呼びしたい」という私の手紙に対して「生誕100年の行事のことを東京でもう話している人がいるのは驚きだ。残念なことだが、ブラジルの現状では3年先のことはとても見当もつかない。でもとても嬉しいことで、日本に行けるものだったら是非行ってみたい」という返事をよこされたばかりだっただけに、この知らせには大きなショックを受けたのである。何よりも残念なことは生誕100年記念に彼女の来日が実現できなかったことで、彼女には少なくとも後10年は健在でいて戴きたかったし、協会の設立を聞いたらどんなにか喜んでいただけたに違いないと思うのである。

記念館はその後、ヴィラ=ロボスには最も関係の深い音楽家の一人で、世界的によく知られたブラジルのギタリスト、トゥリビオ・サントス氏が後継者となった。サントス氏は今年44才、少年時代にヴィラ=ロボスの教えを受けたことがあり、ヴィラ=ロボスの最も深い理解者の一人として、また作品の演奏や研究における第一人者として最も相応しい存在なのである。ヴィラ=ロボスの作品がもっとより広く世界に知られ演奏されるために、記念館はこれからまた更に新たな形の活動を展開してほしいものである。

ヴィラ=ロボスが本当の意味でこの日本で理解され、知られるにはまだ時間がかかるだろう。しかし必ずその時期がくるものと信じている。そのために協会は大きな役割を果たさなくてはならない。会員の皆さんのご協力をご期待する次第である。

(むらかた ちゆき/
日本ヴィラ=ロボス協会会長・指揮者)


編集:市村由布子
Editora: YUKO ICHIMURA