日本におけるヴィラ=ロボス研究の先駆者、村方千之氏の文章を公開

村方千之氏からの手紙⑮(1991.11.14)

村方千之氏からの手紙⑮(1991.11.14)

村方千之氏がプログラムノートに執筆した文章を抜粋し、「村方千之からの手紙」というシリーズでご紹介しております。

ブラジル現代音楽祭[第1回]ブラジル現代作品を聴く特別コンサート
“歌・フルート・ピアノ・チェロオーケストラの夕べ”
1991 [平成3] 年11月14日 中央区立 中央会館
主催:日本ヴィラ=ロボス協会

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【チラシから】

ブラジル現代音楽祭について

《ブラジル風バッハ》や《ショーロス》の作曲家として、わが国では最近ようやくお馴染みとなってきたブラジルの異色の大作曲家ヴィラ=ロボスについては、改めて述べることもないが、今回はそのヴィラ=ロボスを初めとして、これに続くブラジルの代表的な現代の作曲家の作品を日本の音楽ファンに聴いていただくために、このブラジル現代音楽祭は企画された。これから毎年秋にはこの企画を継続して、ブラジルのみならず広く南米各国の現代音楽にまで広げ、ヨーロッパ指向に偏っているわが国の音楽ファンの視野を、すこしづつ南米の方にも広げていければと思うのである。

ヴィラ=ロボスは20世紀の初め、それまでヨーロッパ音楽一辺倒だったこの国の音楽界に、誰よりも早くブラジルの音楽原語を確立した人として、この国の音楽史には重要な位置を占めているが、その生涯に残した約2,000曲もの作品の特徴と魅力は何と言ってもブラジルの土着の音楽に触発されて書いた、野趣とロマンの叫びにあると言ってよい。

今回はヴィラ=ロボスの他に6人のブラジルの作曲家を紹介するが、ヴィラ=ロボスより30年も古いO.オズワルドA.レヴィから、50年も若いM.ノブレまでが含まれていて、内容は様々である。ただ、共通しているのはそれぞれにブラジル的な情感や情緒が込められていることで、リズムの躍動感やメロディーの美しさはやはりブラジルならではのものが感じられて楽しめる。

日本ヴィラ=ロボス協会々長
村方 千之


【プログラムノートから】

ブラジル現代音楽祭の開催にあたって

日本ヴィラ=ロボス協会は1986年秋に協会を設立して以来、この5年間にブラジルの生んだ世界的大作曲家エイトール・ヴィラ=ロボスの偉大な業績を日本に広めるべく数多くの啓蒙活動を重ねて参りました。

特に1987年の生誕百年では、世界的に行なわれた記念行事に呼応して東京における5回の特別コンサートをはじめ地方数箇所でのコンサート、講演会、展覧会を行ない、それまでに殆ど知られていなかったヴィラ=ロボスとその作品への共感と理解を高めることに大きな成果を上げましたが、続いて2年後の1989年の没後30年にはブラジルより、名ソプラノ歌手マリア・ルシア・ゴドイとピアニストのミゲル・プロエンサのお二人を招聘し、東京、神戸をはじめ関東、東北などの地方都市8ヶ所においてコンサートを開催、前回にも増してさらに大きな啓蒙活動の成果をあげることができました。

さて、この1、2年わが国におけるヴィラ=ロボスへの関心は急激に高まりつつあり、多くのコンサートのプログラムに彼の作品が取り上げられる例は珍しくはなく、オーディオ関係、テレビ、FMなどでも頻繁にその作品を耳にするようになりました。これも時代の流れであると思われますが、私ども日本ヴィラ=ロボス協会の地道な努力の成果も認められるわけであります。

この様な流れの中で、協会では今年度よりさらに活動の視野を広げ、より広範なブラジル現代音楽の啓蒙にも力を注ぎたいと考え、これからは毎年11月に「秋のブラジル現代音楽祭」を企画いたすこととなりました。ヴィラ=ロボスを中心にして近代、現代にブラジルが生んだ優れた作曲家たちの作品を紹介し、ブラジルとの芸術文化交流の輪を広げたいと考えております。なお、この秋はブラジルを代表する世界的なピアニストのルリ・オズワルド女史をお招きできたことは大変嬉しいことであります。

これからも皆様方の深いご理解とご協力の下に、意義あるコンサートを続けて開催して参る積もりであります。今夜はどうぞ最後までごゆっくりとブラジルの作曲家たちの音楽をお楽しみください。

1991年11月

日本ヴィラ=ロボス協会会長
村方 千之
ASSOCIAÇÃO VILLA-LOBOS DO JAPÃO
Presidente CHIYUKI MURAKATA

 


ブラジルのクラシック音楽について

村方千之

ブラジルは、およそ500年前にポルトガルの海洋探検家によって発見され、ポルトガルの植民地時代を経て1822年にブラジル帝国として独立し、その67年後の1889年に連邦共和国となり王政が大統領制に移行し、現在にいたっている。

16世紀の初頭、ヨーロッパの封建制度の抑圧から逃れて、多くのポルトガル人が、次いでイタリア、ドイツなどヨーロッパ各地から様々な階層の人々がこの新天地に移住した。更にアフリカから連れてこられた黒人奴隷たちも加わり、原住民インディオの文化も混り合って、400年余りの歴史の経過の内に、南米の中では唯一、ポルトガル語を国語とする独自の文化圏が発展して来た。

ブラジルの音楽の歴史も、そうしたこの国の歴史を背景に発生し発展し、多民族国家ブラジルならではの独特の音楽文化ができあがっていった。

16世紀のはじめ原住民インディオの教化のためにやって来たイエズス会士たちは、インディオがお祭りの際に粗末な管楽器や打楽器の伴奏で歌ったり踊ったりするのをよく見掛けた。彼らの歌がグレゴリオ聖歌によく似ていたことから、インディオの教化に音楽を生かすことを考え、聖歌やフルート、弦楽器、クラビコードなどを教えて村や教会のセレモニーの伴奏に活用し、インディオが良い声をしていたことから聖歌隊を編成し、2重唱、3重唱、4重唱のミサ曲も歌えるようにしていった。

次いで、黒人奴隷たちが植民地時代の初期にアフリカからもたらした音楽は、イベリア系の音楽と接触して豊かなものになり、その独特なリズム感は今日でさえこの国のポピュラー音楽、芸術音楽に多大の影響を与えている。また黒人奴隷たちの中に発生した“ルンドゥー”(コミックソングダンス)は長い間ブラジルの典型的なポピュラー音楽の重要な形態の一つとして発展し、19世紀にはいってポルトガルの宮廷でもこれが歌われていたと言う。また、これはブラジル独特のフィュージョン、ショーロやサンバなどを生みだすもとにもなった。

18世紀にはいると、白人と黒人の混血ムラートの中にギターの名手が現れ、ブラジル風艶歌とも言うべき弾き語り風のモジーニャがうまれ民族の間に広がり、これは現代にまで引き継がれているが、一方、18世紀の後半には商人達によってヨーロッパから商品と共に楽譜が持ち込まれるようになると、宗教的なテーマと対位法を組み合わせた作曲技法が発達した。とくに金鉱のあったミナス・ジェライス州には多くの人が集まるようになり、文化活動も盛んになった。ミナス出身のムラートの作曲家や音楽家は、芸術を通じて社会的地位を高めようと積極的な活動をした。これは最近になって当時の楽譜が教会などの古い資料の中から何千と発見され、これをミナス(ミナス地方)バロックと称しているが、その代表的なものにはシルビア・ゴメスメスキッタフランシスコ・ゴメスなどの作品があり、当時にしては知識や独創性の上で注目されるものがあると言う。まだこの頃大農園では奴隷たちをメンバーとしたバンドがつくられ、神父達が自らその音楽教育に当たっていたと言われる。

18世紀の終りには、金鉱が斜陽化すると多くの作曲家や音楽家たちが、当時の政治や文化の中心であったリオ・デ・ジャネイロに移って行った。1808年のポルトガル王室の到来と、それに伴うヨーロッパ文化の影響の拡大という過渡期には、音楽活動の上でも大きな変化が現れ、とくにサンタ・クルス大農園の伝統に従って音楽教育を受けて育ったオルガンやクラビコードの即興演奏の名手ジョゼ・ガルシアは、ドン・ジョアン6世の目に止まり歌手や楽士などおよそ100人を擁していた王室礼拝堂の監査役を仰せつかった。彼はまた“鎮魂ミサ”やオペラなど幾つかの作品も残している。また、本来大衆のものであった“モジーニャ”が貴族のサロンなどでも歌われるようになり、著名なギタリストのドミンゴス・バルボーザがポルトガルにこれをもたらすと、ここでもポルトガルの作曲家たちの興味を引き、芸術的な域にまで高められ、上流社会の典型的な歌にまでなってしまった。

19世紀に入ると、ヨーロッパからの影響は益々大きくなり、19世紀半ばにはゴム景気に湧いたアマゾン流域のマナウスやベレンなどの都市には当時の建築技術の粋を集めて建てた700人を収容出来るほどの素晴らしいオペラハウスが建てられ、ヨーロッパから音楽家たちが呼び寄せられてオペラが上演されていたという。

一方1822年のブラジルの独立を契機として、一部の作曲家達はブラジルの大地、自然、国家を賛美するナショナリズムにひたった賛歌やモジーニャ、それにブラジルの歴史的な物語りを題材にしたオペラなども作るようになり、その代表的なものはアントーニオ・カルロス・ゴメス(1836~1896)が作曲した≪グァラニ≫で、これはミラノで初演され、ヨーロッパの各地でも大成功を収めた。ただ、この作品はまだヨーロッパ的な作曲手法から抜け出たものではなく、ブラジル的なオリジナリティは感じられない。

やがて王政から共和国に移り、作曲家たちの間にはブラジルのフォルクローレの要素を作品に取り入れる新しい風潮が盛んになり、ブラジル的なものに基盤を置いた作品が生まれるようになり、その最初のものはブラジーリオ・クーニャ(1848~1913)が書いたフォルクローレ調のピアノ曲≪セルタネージャ≫で、この他にも代表的な作曲家はアレクサンドゥレ・レヴィー(1864~1892)やアルベルト・ネポムセーノ(1864~1920)等がいて、ネポムセーノは奴隷解放運動に加わったりした当時としては進歩的な音楽家で、内面的に深い意図のある作品を残しているが、ただその作曲技法はまだロマン派の域を抜け出してはいない。ただ、彼等によって初めてポルトガル語の歌詞が芸術歌曲に使われるようにもなった。

19世紀末になりブラジルが共和国として独立し、人種の平等や自由思想が広がるようになると、20世紀にかけて文化の解放発展は益々進むようになり、音楽の分野でも優れた音楽家が排出され、ヨーロッパとの交流が頻繁になり、各地にオペラハウスが建てられ内容も豊かになっていった。

そうした20世紀繁栄のなかでは、ブラジル独自の音楽言語を独力で確立し、あらゆる分野に2000曲にも上る作品を残し、世界にブラジル音楽の存在を広めた、かの偉大な世界的作曲家エイトール・ヴィラ=ロボス(1887~1959)は注目すべき存在である。彼は自らの足でブラジル奥地を探訪し、土着の音楽を採譜し、これを自作のエキスとして活かし、最も敬愛していたJ.S.バッハの精神を土台にして作品を書いたが、ブラジルの典型的な主題を基盤に書いた例の≪ショーロス≫≪ブラジル風バッハ≫をはじめ、歌曲、ピアノ曲、室内楽曲、ギター曲にはそれまでにだれも出来なかった独創性を発揮し、ブラジルの音楽界に大きな刺激と変革をもたらした。彼はブラジルの音楽教育の改革にも力を注ぎ、合唱運動を盛んにし、多くの偉大な業績をこの国に残した。ちなみに日本の山田耕筰(1886~1965)も、殆ど同じ時期の人であったことも大変に興味深いはなしである。

1922年に行なわれた「現代芸術週間」を機に、ブラジル音楽の展望を論点として、ブラジル音楽に介在しているヨーロッパ的傾向から脱却した別の立場を確立することを狙いとして、音楽家の間で議論が戦わされた。この後で「ブラジル音楽についてのエッセイ」を出版したマリオ・デ・アンドラーデ(1893~1945)は、「作曲家は自国の生活の中にインスピレーションを感じるべきで、ブラジルの民族音楽がいかに幅広い豊かなものを持っているか」を強く強調している。この後、作曲家たちの流れは大きく二つに分かれ、アドラーデを支持する第一の派は、カマルゴ・グァルニエリを頭にアンドラーデの門下がこれを代表し、ルシアーノ・ガレット(1893~1931)、オスカー・ロレンツォ・フェルナンデス(1897~1945)、フランシスコ・ミニョーネ(1897~1968)、ハダメス・ジナッタリ(1906~  )、ゲッハ・ペイシ(1914~  )などの名前が挙げられる。これらの作曲家たちの作品は、それぞれに異なった内容を持ってはいるが、共通して自国の音楽言語の普遍性に基づいて創作している。

ところが、これとは全く異なった美的観点を持った一派がブラジルにも現れた。この動きはドイツ系の作曲家ハンス・ジョアキン・コルロイターがムジカ・ヴィヴァ・グループを創設したことから起きた。その理念はゲハ・ペイシクラウディオ・サントーロ(1919~1989)、エディノ・クリーゲル(1927~   )などの作曲家によって纏め上げられ、音楽言語の普遍性を前提に、無調形式と12音階を作曲法として用いることを擁護するもので、彼等はその思想を広めるために激しいキャンペーンを開始した。この運動は1946年のムジカ・ヴィヴァ声明の発表で最高潮に達したが、ペイシサントーロの二人は後にこのグループを外れ、別の見地から音楽を書いた。

コルロイターら彼らの弟子たちによって広められた理念やテクニックが常時、広範に受け入れられるようになると、これに不満を抱いたカマルゴ・グァルニエリは、1950年の秋「ブラジル音楽家と音楽評論家への公開状」を紙上に発表、同時に自らの手で学校を設立して対向、結果的にはここから多くの著名な音楽家を生み出すことになった。

その後幾つかの経緯を経て、この国の風土や言語のなかから生まれたいわゆるブラジルならではのインスピレーションを感じる作品を作曲家たちは書こうとしている。一方さらに進歩的、現代的手法で作品を書いている作曲家も多く、彼らはアメリカやヨーロッパなどでも盛んに活躍しており、マルロス・ノブレ(1939~  )などはその最も代表的な人である。

演奏家も多くの人が世界的に活躍しており、ピアニストのネルソン・フレイレ(1944~  )、モレイラ=リマ(1949~  )。指揮者のエリアザール・ジ・カルバーリョイザーク・カラブチェフスキーなどは有名で日本でも知られている。

ブラジルと言えばサンバかコーヒーかアマゾンしか浮かばないと言うのが一般の日本人の認識で、ブラジルのポピュラー音楽への関心は高くても、残念ながら明治以来ヨーロッパ指向一辺倒に仕込まれて来た日本のクラシック音楽ファンは、南米と言うだけで見向きもしないところがある。私は幾度かブラジルの主要なオーケストラを指揮し、日本の作品を紹介し、またブラジルの作品も演奏した。日本よりも遙かに歴史の古いこの国のクラシック音楽はまだ一部の人々のものでしかなく、オーケストラも技術的には問題も多いが、感覚的土台は日本に比べてずっとしっかりしたものがあり、その音楽的土壌の深さを感じる事が多い。

(註)ブラジルの作曲家・演奏家たちの( )内の存命期間の情報は、1991年時点のものです。

 


◆このプログラムノートには下記の寄稿文が掲載されております。
カルロス・ルイス・コウチニョ・ペレス(駐日ブラジル大使):「メッセージ」
・「10人の作曲家たち」「曲目メモ」はシェン・リベイロ村松民子濱田滋郎村方千之の諸氏による共著であるため、掲載は控えます。
村松民子(ピアニスト):「ミニョーネ未亡人よりのメッセージ」

編集:市村由布子
Editora: YUKO ICHIMURA