日本におけるヴィラ=ロボス研究の先駆者、村方千之氏の文章を公開

村方千之氏からの手紙㊵『ショーロス第9号』(1993.10.20)

村方千之氏からの手紙㊵(1993.10.20)

村方千之氏が日本ヴィラ=ロボス協会の会報『ショーロス第1~12号』に執筆した文章を抜粋し、「村方千之氏からの手紙」というシリーズでご紹介しております。

村方 千之「巻頭言 ブラジル、チリ、1993年 秋」
『ショーロス』第9号
(日本ヴィラ=ロボス協会会報)
平成5年(1993)10月20日、2頁

発行 村方 千之 / 日本ヴィラ=ロボス協会
編集 岩本俊一 渡辺猛 奥藤由布子


巻頭言 ブラジル、チリ、1993年 秋

村方 千之

ヴィラ=ロボスが生涯に書いた作品の数に就いては正確なことは把握されていない。一般に約2000曲と言われたり、約15~600曲と言われたりしている。一つの曲集を一曲とするのか、またはその中に含まれる曲を例えば15曲とか20曲と言うように細かく数えたりすることで違ってくる。とくに歌曲や合唱曲、ピアノ曲などには曲集のようなものが多いからその数え方によっても、表現方法が変わってくるかとも思われるがしかし、何れにしても並の作品の数ではないことは申すまでもない。

仮に2000曲余りとするならば、72才で亡くなった彼が15才の頃から作品を書き始めたとしても約57年間、簡単に割ってみたとしても1年間に35曲、一ヶ月に3曲の割りになる。

彼はじっと立て篭もって毎日曲ばかり書いていた人ではなく、演奏家として、指導者として、啓蒙家、教育家としても国内外を飛び回っていた人で、かなり忙しい生活環境の中での創作だったに違いないから、簡単な割り算で一ヶ月に3曲と言ってみたところで、曲も大曲もあり小品ありで、内容も様々だからそう単純な話では片付けられないことは言うまでもない。

リオ・デ・ジャネイロにあるMuseu Villa-Lobos(ヴィラ=ロボス記念館)は、彼が亡くなった1959年の2年後の61年に彼の偉業を保存し記念すべく、教育文化省の外郭団体として設立され、館長にはアルミンダ・ヴィラ=ロボス未亡人が当たってきた。当初はかつて首都であったリオ・デ・ジャネイロの中心街に残されていた教育文化省の建物の一部に置かれていた。私が初めてここを尋ねた1975年頃には勿論、その後の82年に行った頃もまだこの一角にあったが、アルミンダ夫人が亡くなられた87年の一年後に、中心街から南に下ったBotafogoの住宅街の真ん中に3階建ての古い邸宅が買い取られここに移り運営されている。

ここでは今、彼の全作品の完全な整理を大きな仕事として進められているようだが、彼自身も「私がヴィラ=ロボスになることが初めから分かっていたら、書いた作品はもっと大切にしまっておいたのに……」と冗談を飛ばしたと言われているが、自分の書いた作品についてあまり執着を持たなかったヴィラ=ロボスは、特にアルミンダ夫人と一緒になる前の作品に関しては、誰の手に渡ったのか分からないものや、紛失、散逸したものが多く、前妻のルシーリア・ギマランエス夫人の側にも作品の著作権が保有されたままのものや、著作権を保有されたまま潰れてしまった出版社など……、今直ぐには解決されない課題が山積みされているようで、彼の全作品の完全な整理が完成されるのはまだまだ先の話になるだろうと思われる。

ところで私はこの1993年の秋、計らずも国際交流基金の派遣で9月半ばから10月に掛けて一ヵ月半に亘ってブラジル、チリの二ヶ国五つのオーケストラを指揮して回ることになり、久々に現地の音楽家との交流の機会が与えられ、またあの懐かしい南米の空気が胸一杯に吸えることを楽しみにしている。また11月の半ばには再び渡伯、恒例のヴィラ=ロボス・フェスティバルに参加、指揮することになっており、ヴィラ=ロボスについてもこうした機会を活かしてより深く知識を得、さらに認識を高めていきたいと考えている。加えてブラジルについて、また広くラテンアメリカについても、もっと関わりを深めたいものと願っている。

3年後の95年には日本、ブラジル修好条約100年を記念した様々な催しが、外務省をはじめブラジルとの関係の深い多くの企業団体で考えられているようで、当協会も申すまでもなくその一つとして参加し、有意義な活動を実らせなくてはならない。

さて、次には面白い旅の土産話を書かせていただく積もりでいる。

(むらかた ちゆき/
日本ヴィラ=ロボス協会会長・指揮者)


編集:市村由布子
Editora: YUKO ICHIMURA