日本におけるヴィラ=ロボス研究の先駆者、村方千之氏の文章を公開

村方千之氏からの手紙㊳『ショーロス第7号』(1991.5.26)

村方千之氏からの手紙㊳(1991.5.26)

村方千之氏が日本ヴィラ=ロボス協会の会報『ショーロス第1~12号』に執筆した文章を抜粋し、「村方千之氏からの手紙」というシリーズでご紹介しております。

村方 千之「リオ・デ・ジャネイロ、1975年」
『ショーロス』第7号
(日本ヴィラ=ロボス協会会報)
平成3年(1991)5月26日、2頁

発行 村方 千之 / 日本ヴィラ=ロボス協会
編集 佐藤雅彦


巻頭言 リオ・デ・ジャネイロ、1975年

村方 千之

ブラジルについての話題が、最近はあまりテレビや新聞などで見聞きしなくなった様に思われる。ベルリンの壁が破られて以来、東ヨーロッパの急激な変革、続いての湾岸戦争、クルド難民のこと、バングラデシュの災害と世は専ら続いて起こってくる北半球の出来事に目が離せないからなのだろうか。

ひどいインフレに困り果てたブラジルは新大統領になってからインフレを抑えるための政策がかなり大胆に行われ、一般国民にとっては厳しい統制に窮屈な思いをしていた様だが、そのお陰でそれなりの効果を発揮したかに見えていた矢先、イラク戦争が始まり、ブラジルにとっては大切な貿易の相手であったイラクに向けて武器等の輸出が出来なくなり、一方で石油の輸入も止まってしまうと言う二重のダメージを受け、せっかくのインフレ抑制の政策も思うような成果を上げられないでいると言う話である。

私が初めてリオ・デ・ジャネイロを訪ねたのは1975年の11月だから、はやいものであれからもう15年も経ってしまった。あの初めてリオの飛行場に降りた時の何とも言えない爽快だった気分は今でも忘れられない。空港と言うより飛行場と言うのが相応しい風景であったが、抜けるようなコバルトブルーの空を見上げ、24時間を掛けてやってきた地球の裏側での第一歩をしっかり踏み締めたことが思い出される。

税関のカウンターでは目のギョロギョロした太った男達がかなり乱暴にバッグを開けて検査をしていた。私の番になると、いかにもうさん臭そうではあったが、「Japonês!」と言いながらパスポートを眺め「観光か?」と聞くから、これだと言ってカバンの中の指揮棒のケースを指差したら、彼はこれを開けながら「Oh! Maestro」と叫んで、その厳(いか)つい顔がほころんだ。大きく頷くとグローブの様な手を振りながら、「もう結構だ、行っていいよ!」と言う素振りを見せながら大袈裟に頭を下げて通してくれた。その開放的で人間味溢れた歓迎ぶりはこの国の第一印象を決定づけた。11月と言えば日本の5月、5月になるといつもあの時のリオの匂いが鮮明に甦るのである。

ブラジルは訪ねる度に親しみの深くなる国である。この国は多民族国家だからいろいろな顔をした人達と出会う。初めてリオの中心街を歩いていたら、この私に道を聞いた人もいた。店の前に立っていると、「これはいくらと書いてあるのか」と聞いてきたりもする。この国は旅行者が着いたその時からここの人として受け入れてしまうのである。75年にリオの町を走っていたタクシーの床には穴が開いていて足元に道路が流れるのが覗かれた。それが行く度にブラジル経済の向上に伴ってタクシーが綺麗になっていった。

だが、ブラジル経済は80年に入ると陰り始め、85年以降は次々に日本の商社も引き上げてしまい、87年ヴィラ=ロボスの生誕百年の記念に訪ねたブラジルは何かこの国らしくない活気のなさに淋しい思いをしたのであった。

生活をエンジョイすることが人生そのものの様なおおらかなこの国の人たちは陽気でくったくが無く、概してお人好しで親切である。「Mais ou menos」……大体に、適当に、まあまあ、程々に、……という言葉がここではよく聞かれる。ブラジルに行くと日本では味わえない解放感があるのは、やはりこのせいなのだろうか。今この国は纏まりもなくがたがたしていて、締まりも取り止めも無い様だが、そのおおらかさ故に未来の夢を託せる国なのかもしれないのである。ブラジルは懐かしい。

(むらかた ちゆき/
日本ヴィラ=ロボス協会会長・指揮者)


編集:市村由布子
Editora: YUKO ICHIMURA