日本におけるヴィラ=ロボス研究の先駆者、村方千之氏の文章を公開

村方千之氏からの手紙㊴『ショーロス第8号』(1992.10.20)

村方千之氏からの手紙㊴(1992.10.20)

村方千之氏が日本ヴィラ=ロボス協会の会報『ショーロス第1~12号』に執筆した文章を抜粋し、「村方千之氏からの手紙」というシリーズでご紹介しております。

村方 千之「巻頭言 このごろ思うこと」
『ショーロス』第8号
(日本ヴィラ=ロボス協会会報)
平成4年(1992)10月20日、2頁

村方 千之「特集 日本人とヴィラ=ロボスの出会い(1)」
『ショーロス』第8号
(日本ヴィラ=ロボス協会会報)
平成4年(1992)10月20日、3~4頁

発行 村方 千之 / 日本ヴィラ=ロボス協会
編集 岩本俊一 奥藤由布子


巻頭言 このごろ思うこと

村方 千之

 これほど赤裸々に音楽作品を書き続けた作曲家は、恐らく他には見当たらないと私は思っている。

ヴィラ=ロボスの作品の特徴の一つは、殆どの曲が目下進行中と言った雰囲気を、そのまま残して書き終えられていることである。言い換えれば書きっぱなしと言うことにもなろうが、湧き出てくるホットな情感が冷めないうちに一気に書き上げていったに違いない屈託のなさがその全ての作品に感じられる。

だから、だれもが親近感を持ちやすい。先ず、演奏する側を気軽に近づけてはくれるが、やがてその容易ならざる大きさに不安を増し、かと言って虜にもされてしまう。やってもやっても捕らえ難い大きさや、深さに戸惑い始めると、簡単に仕上げると言った容易な妥協は受け付けてはくれない厳しさがそこにある。

彼は作品を書いても、後で推敲を重ねるといった書き方をしてこなかったと思われるところが多い。したがって完成された、完璧な体裁を整えている風な作品はない様に私は思っている。

私は演奏しながら、何時も不可解な料理しようのない個所にぶつかると、様々な試みをしてみるが、不自然になるばかり、その殆どは満足できるような結果を生むことはない。

“ブラジル大陸が生んだ野趣とロマンの大作曲家”と私は以前から言ってきたが、野趣であることの真の魅力を問い直さなくてはヴィラ=ロボスの世界に共感する道は見出せないだろう。

最近世の中が、いわゆる近代化され便利になり、無駄な手間が掛からなくなり、迷ったり、苦しんだり、考えたりという時間を人の心に与えなくなりつつある。自ら作り出す手間を省いても間近にある手軽さに走って、形だけ整えていこうとすることが大変に多くなっている。“恰好良い”というはやりの言葉に象徴されているのは、中身はとにかくよく見えることをよしとしていることだから、ヴィラ=ロボスの開けっ広げのロマンは、永遠にその大きな手を広げて、時代を問わずいきざまを晒(さら)し、真に共感できる心を何時までも待っていてくれるように思うのである。もっと彼の作品を思う存分演奏したい。今の私のひたすらな願いである。

(むらかた ちゆき/
日本ヴィラ=ロボス協会会長・指揮者)


特集 日本人とヴィラ=ロボスの出会い(1)

村方 千之

■セゴビアの来日とヴィラ=ロボス

世界的ギタリストのセゴビアは昭和4年(1929)に初来日しているが、ヴィラ=ロボスとセゴビアがパリで出会い親交を深めたのはその3年前のことで、それからすると、この時のプログラムには既にヴィラ=ロボスのギター曲が弾かれたに違いないと想像される。そうだとするとヴィラ=ロボスの名が日本でお目見えしたのは、まさにこの時が最初だったに違いない。なんと64年前のことでヴィラ=ロボスは当時40歳であった。

■日本で初めて音楽叢書に紹介されたヴィラ=ロボス

また、昭和8年(1933)東京麹町の普及書房が刊行した『現代世界音楽家叢書』の第9巻は“ヴィラ=ロボス”になっており、海軍軍楽隊出身の作曲家伊藤昇氏がこれを著している。伊藤氏は今病床にあるが79歳でご存命である。彼こそがヴィラ=ロボスを紹介した先駆者だったわけで、その叢書の序説には誠に興味深いことが書かれている。「ヴィラ=ロボスの作品がミュージカル誌上における二つの彼に関する論文で漸くその片鱗を窺うことができた。私も又奇異な作曲家の存在を注意し、作品の種々を取り寄せて研究した。彼の特異性のある作品の多くはパリでも些か風変わりなものとして迎えられている様である。……………ヴィラ=ロボスは本年漸く46才を迎えたばかりで、彼の本当の活躍はこれからで今後大いに期待をもっていて良いと思う。」1933年5月15日。………とある。

この叢書にみる伊藤氏のヴィラ=ロボスへの考察は性格で当を得、この作曲家への将来への発展的展望を見事にいいあてているのには誠に敬服させられるものがある。

■日本人としてヴィラ=ロボスと会食した唯一の人

さらにまた日本の音楽家としては唯一人、ヴィラ=ロボスと親しく会食をした人がいる。チェリストの平井丈一郎さんは1959年の1月、メキシコ市で開催された世界大音楽祭に師匠カザルス夫妻のお供をしてこれに参加した折に、大富豪の庭園でのディナーの席でヴィラ=ロボス夫妻に紹介され、この時ヴィラ=ロボスは彼のためにチェロの作品を書くことを約束したと言う。

しかし残念ながらヴィラ=ロボスはこの後、風邪が元で持病が再発、約束の作品を残すことなくその11月17日、話題に満ちた72年の生涯をリオ・デ・ジャネイロの自宅で閉じた。昭和34年のことである。

■ギター界ではヴィラ=ロボスを知らぬ人はいない

戦後の日本では、ヨーロッパに渡りセゴビアの門下となった何人かの日本のギタリストたちによって、昭和30年頃から逸早くヴィラ=ロボスのギターの作品が日本でもギター界で盛んに取り上げられていった。ヴィラ=ロボスのギター作品は全体のごく一部に過ぎないが、中身の濃さから言うと最も主要な作品ばかりで、ギターを愛好する人々にはヴィラ=ロボスを知らない人はいないが、残念ながらヴィラ=ロボスの全体像が紹介される機会が余りなかったためか、一般の世間ではヴィラ=ロボスは単にギター曲の作曲家としか知られていなかった様だ。

■ヴィラ=ロボス夫人のアルミンダさんが初めて来日した記念すべき出来事

N響のファゴット奏者として活躍されていた山畑 肇氏はこの頃お嬢さんが習っていたヴィラ=ロボスのギター曲に魅せられ、この作曲家の虜になり大のファンとなった。昭和43年(1963)にはN響が南米を演奏旅行した際には、ハーピストの奥様とN響メンバー数人とでリオ・デ・ジャネイロのヴィラ=ロボス博物館に立ち寄り、アルミンダ・ヴィラ=ロボス未亡人に大変歓待を受けたということである。私が初めてリオ・デ・ジャネイロにコンクールを受けに行った時に記念館で見た、例の懐かしいサインというのはこの時の皆さんのものである。

アルミンダ未亡人はこれがご縁で、山畑氏を中心とした熱烈なヴィラ=ロボス愛好家達の努力で、1970年(昭和45年)大阪万博の開かれた年の8月、はるばるブラジルから招かれて来日し、これを記念してN響の有志メンバーによる“ヴィラ=ロボス記念コンサート”が開催され、室内楽作品などの記念すべき日本初演が実現したのである。恐らくギター曲以外の作品が日本で初演されたのはこれが最初であったのだろう。まさに記念すべき出来事であったわけである。その後アルミンダさんはすっかり日本が好きになり、私がお会いした時も大変日本を懐かしがっておられたのが印象に残っている。

■ヴィラ=ロボス国際指揮者コンクールに初めて日本から2人参加

 アルミンダさんの初来日から5年後の1975年の11月、リオ・デ・ジャネイロで初めて行われたヴィラ=ロボスの国際指揮者コンクールには二人の日本からの参加者があった、私とT君である。T君はこの頃すでにヨーロッパを巡り方々で活躍していた若い指揮者だったから、私にとっては手強いライバルではあったが、調子が悪かったのか運悪く一次で終わってしまった。しかし、日本から二人もこのコンクールに参加してくれたと言うのでアルミンダ夫人が大変に感激されたのは申すまでもない。加えて図らずも17ヶ国、34名の中から日本人の一人である私が特別賞まで戴いたのだから、私の半生がヴィラ=ロボスの啓蒙に少しでも役立つ事になるとすれば、これも私の大きな運命の流れなのだろう、と最近強く感じているところである。

■ ヴィラ=ロボスコンクール受賞記念特別コンサートで≪ブラジル風バッハ第9番≫を初演

1997年の1月24日、虎ノ門ホールで行なったこのコンサートで、恐らく日本で初めてヴィラ=ロボスのオーケストラ作品が演奏された。いかにもバッハ風な荘重な序奏に続いて、8分の11拍子が出てくるとまさにヴィラ=ロボスの面目躍如とした音楽になる。残念ながら東京フィルはヴィラ=ロボスの8分の11拍子には馴染めないで、いささか不消化な演奏に終わってしまったが、ヴィラ=ロボスのオーケストラ作品が奏でられたという実感は一つの満足を与えてくれた。

(次回へ続く)

【写真後日挿入予定】

「リオ・デ・ジャネイロ(1977、11月)
ヴィラ=ロボス国際指揮者コンクールにてヴィラ=ロボス夫人とパーティで」

(むらかた ちゆき/
日本ヴィラ=ロボス協会会長・指揮者) 


編集:市村由布子
Editora: YUKO ICHIMURA