日本におけるヴィラ=ロボス研究の先駆者、村方千之氏の文章を公開

村方千之氏からの手紙㊶『ショーロス第10号』(1995.9.1)

村方千之氏からの手紙㊶(1995.9.1)

村方千之氏が日本ヴィラ=ロボス協会の会報『ショーロス第1~12号』に執筆した文章を抜粋し、「村方千之氏からの手紙」というシリーズでご紹介しております。

村方 千之「日本ブラジル修好100周年に思う」、
『ショーロス』第10号
(日本ヴィラ=ロボス協会会報)
平成7年(1995)9月1日、2頁

村方 千之「ヴィラ=ロボス/ブラジル音楽祭’95」
『ショーロス』第10号
(日本ヴィラ=ロボス協会会報)
平成7年(1995)9月1日、3~6頁

発行 村方 千之 / 日本ヴィラ=ロボス協会
編集 佐藤由紀子 渡辺猛


日本ブラジル修好100周年に思う 

村方 千之

今年は戦後50年を迎える節目の年にあたり、特に原爆に見舞われた終戦を迎えた8月は、あの50年前の出来事が昨日のことのように思い返される。この半世紀間の日本の歩みについて私共の周辺で様々なことが取沙汰され大変に賑やかでもあるが、思えばこの50年は私にとって長くもあり、また短かったようにも思える。その中でも1975年以来の20年間は、私にとってはブラジルとの関わりの深い20年であり、私の人生の中で大きな存在感を持っている。

1895年に日本とブラジルの間に結ばれた修好の歴史は、終戦の時をさらに50年遡って100年の時が流れた。その13年後の1908年に初めて日本からの移民791人がブラジルに渡って以来87年、今まではその子孫である日系人は120万人を数えるとも言われ、ブラジルは世界で最も日系人の多い国であり、その関わりは益々深くなっていこうとしている。しかし、この様に近い関係にありながら、日本からは最も遠いところにある国ブラジルについて、日本では知られていることが余りにも少ないのが不思議でもあり残念なことである。

日本人にとってはブラジルと言えばコーヒー、アマゾン、サンバそして近頃ではサッカーだが、それも断片的な印象として頭にあるだけで、この国では何語が語られ、どのような歴史を持ち、どのような文化を持っているのかなどに関しては、かなりの知識人でさえも知ることはない。同様にブラジル人の間でも日本がどの辺にあるのか、どんな国なのかは殆ど知られていない。日本と言えばセイコー、ホンダ、ヤマハ、ソニーetc. …中にはこれらが日本の製品だということも知らないものもいる。いうまでもなくブラジルに限らず、他の国について知ることは興味や努力なしに出来るものではない。

私がブラジルに関わったのも、そもそもはリオ・デ・ジャネイロという美しい都会への単なる憧れからであった。ヴィラ=ロボス国際指揮者コンクールが、この憧れの都会で行われる、と言う切っ掛けが期せずして私とこの国の音楽文化を深く結び付けることになったのであるが、それまでの私はこのヴィラ=ロボスさえもよくは知らなかった。だが、初めてリオの空港に到着し、降り立った瞬間から私はこの国の虜になったのである。

ヨーロッパの移民がブラジルに持ち込んだ伝統的クラシック音楽は、ブラジルの土壌に根付き芽生え、この国独特の音楽文化として定着、発展し、ヨーロッパ的ではあるがブラジルならではの新しい音楽がブラジルの作曲家たちによって次々に作られていった。その最初の偉大な作曲家がカルロス・ゴメスであり、ブラジルならではの音楽を確立したのがヴィラ=ロボスである。ブラジルにはこの他にも、まだ多くの素晴らしい作曲家たちと作品があることは言うまでもないが、残念なことに今までは日本で紹介される機会は殆ど無かったのである。100年を経た今日、これからは音楽の文化国流にも新しい波を起こさなくてはならい。10月に開催される“ブラジル音楽祭”をその始まりにしたい。


ヴィラ=ロボス/ブラジル音楽祭 ’95

村方 千之

 修好100周年を記念したヴィラ=ロボス協会主催の「ヴィラ=ロボス/ブラジル音楽祭 ’95」は10月半ばに“オーケストラの饗宴”、“室内楽の夕べ”、“作曲家エジーノ・クリーゲルの講演とコンサート”と3日にわたって盛大に行われる。

ブラジルの生んだ世界的大作曲家ヴィラ=ロボスの名は、最近ようやく日本のクラシックファンの間に定着しかけてきた。今回はそのヴィラ=ロボスの曲を中心に、今まで知られる機会が殆どなかった他の作曲家達、カルロス・ゴメスクラウディオ・サントーロエジーノ・クリーゲルの作品を加えてプログラムが作られた。

また、ブラジルを代表する現代の作曲家であるエジーノ・クリーゲル氏を招いての講演とコンサートの企画は、今回のイベントに大きな意義と特徴を与えている。


第1夜 “オーケストラの饗宴”

● カルロス・ゴメス
Carlos Gomes(1838~1896)

彼の銅像はリオの市立劇場前の広場に建てられており、ブラジルの音楽界の行く末を見守るかのようにその目は劇場の正面に向けられている。彼は、1882年にポルトガル王朝から別れてドン・ペドロの下に独立したブラジル帝国の最初の偉大な音楽家としてその名を残している。民族的、国家的な内容の作品を多く書き国民的意識を高めたが、特にイタリア留学中の1870年にインディオと白人青年の恋物語を書いた歌劇≪イル・グァラニ≫はミラノのスカラ座で大成功を収め、その後ヨーロッパ各地で上演され彼の代表作となった。

今回上演される序曲≪イル・グァラニ≫は抒情的な美しい旋律、劇的なダイナミックさといい、ヴェルディ張りの堂々としたもので、魅力溢れる曲である。世界的にも名の通ったこの序曲が100年以上も経って日本初演というのも珍しい。

● クラウディオ・サントーロ
Claudio Santoro(1919~1989)

1919年にブラジル北西部アマゾナス州マナウスに生まれ、子供の頃にヴァイオリンを始め、12歳でリオの音楽学校に入り、20歳で作曲家としての活動を始めた。彼は当初民謡などの影響の下にブラジル的な作品を書いていたが、ドイツ人作曲家コエルロイターと知り合い作曲を学び、やがてブラジルの作曲家の中では最も早く12音階技法による作曲を手がけ、後年に至って多くの作品が現代的な手法に変わっていった。南ドイツのハイデルベルグ・マンハイム音楽学校の教授として過ごし、電子音楽、前衛音楽の分野にも創作活動を広げた。晩年にブラジルに戻り、ブラジリアの大学に音楽学部を創設、初代の学部長となった。彼はヨーロッパ、アメリカまた母国において多くの賞を与えられており、ブラジル音楽界の発展、啓蒙にも多大な貢献を残し、89年70歳でブラジリアに没した。

今回プログラムにのせた≪交響曲第6番≫は1957年から58年にかけて作曲され、63年にパリでフランス放送交響楽団により初演された。彼の14曲の交響曲の中では民族的な要素が強く、約20分という比較的短い長さの中に、4つの楽章が収められており、ブラジル風土を感じさせる主題は、各楽章ごとに印象的な出会いで現れてくる。洗練された手法で変化の要素と表現の豊かさを伴う独創的な作品となっている。12音技法などの現代的手法に移行する前の、39歳という成熟期の魅力的な感性の溢れる代表作である。

私は17年前にブラジルでこの作品を知り、87年にブラジリアで直接、作曲者サントーロに出会い、この曲のスコアを戴いて以来、日本での初演の機会を願っていたが、ようやく今回この企画によって私の親友であるE. ブラッテス指揮の下にこれが実現できることを嬉しく思っている。

● エジーノ・クリーゲル
Edino Krieger (1928~ )

ブラジル南部のサンタカタリーナ州、ブルスケ市で1928年3月に生まれた。祖先はドイツ系、イタリア系、ポルトガル系の音楽家の大家族で、7歳から父についてヴァイオリンを習い、10歳で地元でリサイタルを行い、15歳の時には州政府より奨学金を受け、リオのブラジル音楽学校でヴァイオリンを学ぶ機会を得た。ここでドイツ人作曲家H.J.コエルロイターに師事し、作曲を学び若い作曲家のグループ“ミュージック・ビバ”に加わった、(コエルロイター氏は戦後の日本にも滞在し、日本の作曲界に多大な影響をもたらした)。20歳でアメリカに渡り、バークシャ音楽センターでA. コープランドに師事、その後ジュリアード音楽院でP. メンニンに師事。その後数々の奨学金を得て、作曲家への道を歩み、南米を中心に意欲的に活動、数々の賞を獲得している。

彼は管弦楽曲、室内楽曲、合唱曲、独奏曲、それに映画の音楽、演劇のための音楽なども多く手がけ、およそ150曲余りの作品がある。作風は調性のあるものから無調性のもの、12音技法のものまで様々だが、ブラジル的な風土を感じさせるものが多い。

≪エストロ・アルモニコ≫は1975年にブラジル南部パラナ州の第8回音楽祭からの委嘱により作曲されたもので、作曲者は「12音の全てに作品の構成を委ね、時間的空間とその流れの中にあらゆる組み合わせと可能性を試みた作品である」と語っている。

クリーゲル氏とは20年前私がヴィラ=ロボス国際指揮者コンクールに参加した時に知り合い、今日まで交流を続けてきた友人である。今回彼を日本に招く機会を得、またその作品を日本で初演できることは大変に嬉しいことである。

● H.ヴィラ=ロボス
H. Villa-Lobos (1887~1959)

 今回ヴィラ=ロボスの作品は“オーケストラの饗宴”で3曲、“室内楽の夕べ”で4曲がプログラムに組まれている。

日本初演の≪ブラジル風バッハ第3番≫はピアノとオーケストラのために書かれた4楽章からなる組曲である。4つの楽章には“つま弾き” “夢想” “モジーニャ” “きつつき”とそれぞれの標題がつけられている。奔放に流れるピアノとオーケストラの掛け合いは、ヴィラ=ロボスならではの雄大さと郷愁が入り混じる大バラードである。今回初来日のリンダ・バスターニ 女史のピアノが大変楽しみである。

≪ソプラノサクソフォンと小管弦楽のための幻想曲≫はすでに84年の6月、今回と同じ独奏者須川展也君の独奏、私の指揮で演奏され、87年ヴィラ=ロボス生誕100年コンサートでも演奏され、馴染みのある曲になっている。須川展也君がピアノ伴奏で入れたこの曲がCDとなり発売されており、とくに今回のオーケストラとの競演には定評のある彼のサックスの名演がファンの間には注目、期待されるだろう。

これも日本初演の≪アマゾンの森≫はヴィラ=ロボスが1957年、死の2年前にアメリカ映画「緑の館」の音楽として書いたもので、結局映画のBGMとしては使用されなかったが、没後10年後の69年に≪アマゾンの森≫としてリオで発表された。

今回はこの中から、特に魅惑的な4曲の愛の歌を選び、ソプラノとオーケストラによる≪熱帯の森の歌≫として演奏する。ソプラノ松永栄子さんの堂々とした歌声がきっと聴衆を魅了することだろう。

第2夜 “室内楽の夕べ”

ヴィラ=ロボスはベートーヴェンと並ぶ17曲の≪弦楽四重奏曲≫を残しているが、今回はその中から≪第1番≫と≪第15番≫が選ばれ演奏される。

≪第1番≫は、比較的早い時期の1915年、28歳の時に書かれており、全て独学で作曲の手法を学び自由奔放な作曲態度で作品を書き続けていた彼が、最も正統的な形式を土台として発達、確立されてきた弦楽四重奏曲の分野に筆を染めたことに意外なものを感じさせられる。おそらく反面には最もオーソドックスな分野に自分のオリジナリティを確立したいという意欲を示してきた結果、17曲もの作品を残すことになったのだと思われ、彼がいかに並みの音楽家ではなかったかが証明される世界なのである。

≪第1番≫は「カンティレーナ(牧歌風な小唄)」「ブリンカデイラ(遊び)」「カント・リリコ(抒情的な歌)」「カンツォネッタ(小歌曲)」「メランコリーア(憂鬱)」「サッシーの様に飛び跳ねながら」の6つの楽章に書かれており、むしろバロックの組曲風になっていて、大変親しみやすい誰にでも馴染める楽しい曲である。

≪第15番≫は1954年、晩年の作品である。弦楽四重奏曲としての高い精神性を感じる深く完成度の高い内容を持っていて、第1楽章(アレグロ・ノン・トロッポ)、第2楽章(モデラート)、第3楽章(スケルツォ・ヴィーヴォ)、第4楽章(アレグロ)と、本来の4楽章の形を堅持して書いている。

ヴィラ=ロボス的な世界を感じさせながら、浄化された精神性を保って聴くものの心に深く語りかけてくるものがある。まさに晩年のヴィラ=ロボスの心境がそのまま映し出されているかのようである。

≪ショーロス・ビス≫は1929年、14曲の≪ショーロス≫が書き上げられた後に、ショーロスのシリーズとは別に書いたヴァイオリンとチェロの二重奏曲である。一連のショーロスのうち、≪第8番≫以降は全て大編成のオーケストラで書かれたもので、≪第13番≫、≪第14番≫に至ってはオーケストラ、合唱、吹奏楽といった馬鹿げた大仕掛けなものになっており、彼のエキサイトぶりが想像される世界だが、それが一転して最後にこの様なシンプルな内容のショーロスに変化したのは実に面白い。この曲は82年に日本で初演されており、その後も幾度か演奏されている。≪ショーロス≫本来の即興性と弦楽器の表現力を見事に効果的に活かした大変面白い曲である。

≪ピアノ3重奏曲第1番≫は、1911年、25歳の時に書いたもので、≪第2番≫、≪第3番≫と共に若い時期の作品である。日本では幾つかのグループに既に演奏されている。正統的な様式で書かれており、後期フランスロマン派風の作風で、テーマの循環形式を取り入れて全体をまとめているが、ヴィラ=ロボスらしい野趣な雰囲気よりも、のちに最初の妻となった美人ピアニスト、ルシリアが初演のピアノ・パートを受け持っていたようなことから、かなりの幸福感に溢れた思いで、この曲は書かれたものと想像される。

むらかた ちゆき/
日本ヴィラ=ロボス協会会長・指揮者)


編集:市村由布子
Editora: YUKO ICHIMURA