村方千之氏からの手紙㊱(1990.4.1)
村方千之氏が日本ヴィラ=ロボス協会の会報『ショーロス第1~12号』に執筆した文章を抜粋し、「村方千之氏からの手紙」というシリーズでご紹介しております。
村方 千之「没後30年記念コンサート顛末記」
『ショーロス』第5号
(日本ヴィラ=ロボス協会会報)
平成2年(1990)4月1日、1~3頁
発行 村方 千之 / 日本ヴィラ=ロボス協会
編集 村方 千之 与五沢実
没後30年記念コンサート顛末記
村方 千之
昨年秋、ヴィラ=ロボス没後30年を記念して行われた当協会主催の特別コンサートは、多くの方々のご協力のもとにお蔭様で盛会に、また大変好評のうちに大きな成果を上げ無事に終了することが出来ました。お世話になった方々には改めて深く感謝を申し上げます。
今回はとくに、はるばるブラジルよりこの国を代表するソプラノのマリア・ルシア・ゴドイ女史とピアニストのミゲル・プロエンサ氏のお二人を招聘し、ヴィラ=ロボスの音楽を直接本場ブラジルの演奏家によって聴くことができたことは、この記念行事に何よりも大きな意義を与えることになりました。このお二人の演奏は東京の特別コンサートばかりでなく、各地の演奏会場で来聴された方々に大きな感動を与えましたが、ゴドイ女史が歌われたアンコールの日本歌曲≪からたちの花≫≪赤とんぼ≫の素晴らしさもまた、何時までも忘れられない感動をそれぞれに聴かれた方々の心に残しました。
もう15年前のこと、私が初めてブラジルに行ったときに彼女がヴィラ=ロボスばかりを歌っているレコードを手に入れました。機会があったら一度彼女の生の演奏を聴いてみたいと願っていました。それが丁度1987年のブラジルでの演奏旅行のときに実現し、初めて接したゴドイ女史の生の歌の素晴らしさにたいへん感動し、お会いして話をした事が今回彼女を日本に招聘する大きなきっかけとなったのです。
ブラジルは五百年も前にヨーロッパから直接伝えられた音楽文化の伝統があり、その伝統の上に培われたレベルの高い音楽家たちが沢山活躍しています。加えてラテン系の人々が生来持っている優れた音楽的感性はブラジルをはじめ南米の国々に豊かな音楽的素養を育み、ブラジル、アルゼンチン、チリなどの南米出身のクラシックの演奏家たちが沢山ヨーロッパやアメリカをはじめ世界的に活躍しているのはよく知られている事です。ただ残念ながらヨーロッパ指向一辺倒の日本の音楽関係者やクラシックファンの間ではその様な知識や認識は低く、ブラジルの音楽事情等にはあまり興味を示そうとしないのが現状ですから、その様な中でヴィラ=ロボスへの関心を高めることやブラジルの優れた演奏家に目を向けさせるように働きかけることにはなかなか努力がいりますが、それを乗り越えなくては文化交流のレベルを上げる事はできないわけです。
今回のお二人の招聘について、日本では殆ど知られていない二人の演奏家に対して果たして日本の音楽ファンが本当に興味を示してくれるのだろうかという心配に加えて、受け入れの準備やコンサートの企画、運営の実際的な面でも当初から多くの課題や障害があり、計画を実現するためには数々の難関が控えていたのでした。先ず、資金のない日本ヴィラ=ロボス協会にとってはその工面に始まって、外国演奏家招聘資格の肩代わり、東京での演奏会場確保のこと、東京以外の演奏会の売り込み、日程のこと、宿泊のこと等、さらに一方では日本から最も遠いブラジルとの交渉、打ち合わせには言葉の障害がもたらす意思疎通の難しさ等……挙げればキリのない様々なことを抱え、この目で本当に来日を確認するまでは安心出来ないような話だったのです。
しかし、この計画が話し合われた1989年の春のこと、殆ど絶望的な会場難の東京の中でも偶然にも奇跡的にキャンセルされたばかりの会場が見つかったこと、しかもこれが10月21日土曜日という、願ってもない好ましい日取りだったことは、この計画を推進するに当たっては何よりも幸先のよい第一歩だったのです。
また、日本ブラジル中央協会の会長であり日本ヴィラ=ロボス協会の名誉顧問である田付景一先生がこの計画に対して示してくださった深いご理解とお力添えのお陰で、社団法人である日本ブラジル中央協会が来日する二人の招聘元を引き受けて戴いた事、国際交流基金からの援助が得られたこと、中央協会会員の沢山の関連企業から資金協力をして頂いたこと等は、この計画の成功に大きな力となりました。
さらに、日本ヴィラ=ロボス協会の法人会員である河合楽器K.K.が提供の四箇所の「カワイ・コンサート」、同じく瀬戸アート・オフィスが提供の「大野屋サロン・コンサート」、神戸市民文化協会企画の「ヴィラ=ロボス特別コンサート」などの協力は、折角来日されるお二人に少しでも多くの演奏の場が提供できた点で今回の招聘を有意義に生かすことになったのは本当に有難い事でした。
ミゲル・プロエンサ氏は既に過去二回来日しており、十分に日本のことを理解していたので今回の来日についても殆ど問題は無かったのですが、マリア・ルシア・ゴドイ女史の場合は初めての日本ということで必ずしもすんなりと来日要請に応じて戴いたわけではありませんでした。「日本に興味は持っているが、私の世界的な実績と評価に値するだけの待遇を保障して戴かなくては日本まではるばる行くつもりはない」と言う最初の返事には厳しい思いをしましたが、リオ・デ・ジャネイロに在住の旅行社社長牧田弘行氏の弛まぬ仲介と交渉のご努力のお陰で、ゴドイ女史も今回の招聘の意義を理解し、日本とブラジルの文化交流にご奉仕戴くことになったのです。
ゴドイ女史からはまた、ぜひ日本の歌も歌いたいとの要望があり、20曲程の代表的な日本歌曲を選んでカセット・テープと共に送った中から彼女自身が選んだのが≪からたちの花≫≪赤とんぼ≫≪荒城の月≫の3曲でした。彼女はわざわざリオ・デ・ジャネイロの日本人学校の音楽の先生に日本語のレッスンを受け、日本の歌に取り組んだようで、たいへん綺麗な日本語で歌われたのにはすっかり感心してしまいました。意味も理解し、心を込めての歌い方には誠実さがこもり、その美しい声と相俟って情感の篭った素晴らしい日本の歌を聴かせてくれたのでしたが、それはむしろ日本の歌い手以上に感動的な想いが伝わってきたのでした。
ステージでは一見若く見える彼女ですが、想像を超えてかなりの年配であることを知った時には大変驚いてしまいました。10月15日に到着以来のかなり混んだコンサート日程の為にコンディションをすっかり落としてしまい、本命の10月28日の東京でのコンサートを前にしてその調整に大変苦しんでおられた様子は、企画した側として大変に申し訳のない思いをしたのでした。しかし、その最低のコンディションの中であれだけの歌を聴かせたのに対してやはりさすがの人だと感嘆させられたのでした。
「何もかもコンパクトだ」「何処に行っても人が沢山いる」と言うのが彼女の東京での最初の感想で、新橋のホテルでは「狭くて息苦しくて牢獄の様だ」と洩らしていた時もありましたが、ブラジルの広々とした大地を思うと、また東京のせせっこましさからすると無理もない話でしょう。一方「東京の街はエネルギーに溢れていて若い人達が活き活きとしているのが印象的だ。日本の発展が象徴されている」と言う感想もまた率直な彼女の印象なのでしょう。
神戸のコンサートのために二泊したポート・アイランドは彼女にとって久しぶりのゆったりとした休息となりました。プロエンサ氏はここで久々に爽快と早朝のジョギングで体調を整えていましたが、私とゴドイ女史は午前の柔らかい秋の陽射しを浴びながら見事に造られた自然環境の美しいホテルの周辺を散歩しました。イングランドの田舎街を思わせるような静かなたたずまいに久々に彼女の心は和み、疲れもとれてきたのか、歩きながらの発声練習にすれちがう人々は微笑みながら振り返っていくのでした。広々とした公園でのしばしの歌の練習は私一人で聴いているのは勿体無いほどでしたが、更にまた公園の一角に海の見える小高い丘に登ってのオペラ「ある晴れた日に」の一節は、往年の活躍振りを偲ばせる艶やかに美しいものでした。
お二人の最後のスケジュールとなった芸大での公開レッスンは、それぞれ大変印象的なもので、レッスンを受けた学生のピアノを耳にしながらプロエンサ氏のピアノの素晴らしさ、とりわけその表現力の幅広さと音色の豊かさを強烈に認識させられた実に見事なレッスンでしたが、学生達にとっては滅多に無い大きな刺激となったことでしょう。ゴドイ女史のレッスンもまた実に素晴らしいものでした。表現に合わせた声の色合いの変化の驚くべき多様さ、琥珀色を思わせる深く透明な落ち着いた声の魅力的なこと、レッスンを受けた学生や若い先生方の歌を拝聴しながら、かくも違うものなのかと改めてその中身の桁違いの大きさに驚くばかりでしたが、それにもまして最後に歌われた≪サントス女侯爵のルンドゥー≫の最高の感動は私にとってかつてない深いものだったと言ってよいでしょう。この様子をもっと多くの人々に見せられなかったのが唯々残念でなりません。
プロエンサ氏は昨年の彼の演奏活動が評価され、1989年度の最高の芸術家としての賞をサンパウロ芸術家協会から贈られたようで、益々の活躍が期待されます。また機会があったらぜひお呼びしたいものだと願っています。また、ゴドイ女史の方は年齢的に言って再びお呼びするのはやや難しいのでは無いかと思われますが、「今度はマラソンの様な過酷なスケジュールではなく、ゆっくりと調子を整えて自分の好きな歌を日本の皆さんに聴いて戴きたい」と言う彼女の言葉を考えると、また招く機会を作ってあげたいものだと思うのです。
[追記] 10月28日の東京での特別コンサートのカラービデオは編集もよく、素晴らしい出来上がりです。来聴された方はその記念に、またこのコンサートに来られなかった方にはとくにぜひお勧めしたいと思います。当日のプログラムをセットにしてお送りします。(むらかた ちゆき/
日本ヴィラ=ロボス協会会長・指揮者)
編集:市村由布子
Editora: YUKO ICHIMURA